石の2 「荒城の月」と仙台


滝1 明治の日本を代表する名曲として、「荒城の月」がある。
 「春高楼の花の宴、巡る杯、影さして、
 千代の松が枝、分け出でし、昔の光、今いづこ…」
漢文調でたいへん難しい歌詞であるが、当時はまだ、
詩にしろ小説にしろ、文語体が普通だった頃だ。
作詞は土井晩翠。仙台の人である。
仙台の青葉城や、会津若松城を歩いて詩作したという。
その住まいは今でも、市内中心部、青葉通りのけやき並木の
一角に、ビル群に囲まれて、記念館として、残されている。
英文学者であったが、格調高い漢文調の詩を得意とし、
東北はもちろん、日本のあちこちの校歌の歌詞を書いた。
今でも、校歌というのは、たいてい漢文調でしょ。

一方、作曲者は、滝廉太郎である。
父は大分・日出(ひじ)藩の家老で、明治政府の役人になり、
彼も東京で生まれたが、父の変転と共に13歳で大分に帰った。
成績は優秀で、父は役人になることを願ったというが、土地の
音楽教師からオルガンを習った縁で音楽の道をめざし、
東京音楽学校に入る。するとたちまち、音楽の才能を発揮し、
ついには、国から、音楽の本場・ドイツへの3年間の留学を
滝2 命じられた。時の明治政府は、とにかく西洋文化の取り入れに
躍起だったのだ。しかし、音楽学校としても、教授補にまでなった
廉太郎を失うのが惜しかった。そこで、留学期間は1年とし、
渡航も1年先に延ばされた。
しかし、その渡航前の、たった1年が、滝にも日本にも幸いしたのだ。
彼はその間に、日本らしい曲を作ろうと決意したという。
ちょうど、政府が土井晩翠などの高名な詩人の歌詞24編に、
曲をつける公募をしたが、滝はそのうちの3編に曲をつけて
応募したところ、それがみんな入選した。それが
「箱根八里」、「豊太閤」そして「荒城の月」であった。
彼はその他に、組曲「四季」を作曲した。そのうちの「」が
「春のうららの、墨田川~♪」である。その他にも、
幼稚園唱歌として、「正月」「鯉のぼり」「桃太郎」なども作曲した。
その間には、文豪・幸田露伴の妹・幸との淡いロマンスもあった。

そして翌年、ドイツに音楽留学して、自作の曲を披露すると
あちらでも絶賛されたという。特に「荒城の月」が評価された。
ところが滝は、かの地で高熱を出して倒れる。結核だった。
もう留学どころではなくて、帰国することになるが、途中、
ロンドンで、遊学中の土井晩翠と、バッタリ出会う。
「荒城の月」に関する、作詞家と作曲家の初めての出会いだった。
滝3 お互いを褒め称えあい、喜び再開を約束した。
が、それが最後だった。日本に帰った滝は、その翌年、
療養もむなしく、23歳で夭折したのだった。
運命とはおもしろいもので、滝にドイツ留学を1年延期
という指示が下されていなければ、あの数々の名曲は
生まれていなかったのだ。

それ以後、世界が日本の代表的名曲として認めるこの曲は、
小中学校の音楽教科書により、子供達に教えられてきたが、
1998年度に一度消えた。するとすぐに、復活させて欲しい
という運動が起きた。その中心となり、全国的に署名を集めたのが、
滝が少年時代を過ごした、大分の豊後竹田市の人々だった。
阿蘇の山奥の人口2万5千人、もと7万石の小さな城下町である。
ぼくらも行ったことがあるが、その街路の端から急峻な坂を登ると、
そびえ立つ石垣の上に城郭跡があり、石垣の端に立つと、
ものすごい高さで足が震える。
遠くには九州山地が折り重なって眺め渡せる。
滝にとっての「荒城の月」の曲想は、ここで生まれたのだ。
そして、ここの市民の運動が実って、「荒城の月」は再び、
音楽教科書の中に戻り、変わらぬメロディを流し続けているのである。
(2008年8月)

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