石の2 長崎くんちと、田沼意次(たぬま・おきつぐ)

田沼1 10月7日から3日間、長崎で行われる、諏訪神社に奉納する祭りが
「おくんち」である。市を挙げての祭りなので、その期間、長崎の学校は
半ドンになる。つまり、午前中で終わりである。福岡で有名なお祭りに
「どんたく」というのがあるが、どんたくというのは、オランダ語で日曜日
という意味であり、半ドンというのは、半分休日という意味なのである。
おくんちの演し物は、中国やオランダ、ポルトガル、東南アジアなど
の影響を受けているので、普通の日本の農村の祭りとは全く違う。
ぼくが一番好きなのはやはり、龍踊り(じゃおどり)であり、あの銅鑼と
中国風の笛が奏でるシャギリの音がたまらない。

この祭りが始まったのは、徳川幕府が始まって30年後であり、
ポルトガル領だった長崎を幕府が取り上げて、直轄領にしたすぐの
頃である。ポルトガル領だった長崎には、キリスト教会が幾つも
あり、キリシタンが多かったが、キリシタンを禁令にした幕府は、
教会を取り壊し、諏訪神社を大々的に建築し、町民を氏子にする
ことにより、神道や仏教への帰依を計った。さらに、それを加速する
ために、中国やオランダとの貿易の利益を、諏訪神社の氏子に
なった町民に限って分配したのである。つまり、他の諸藩の農民達
が米の年貢を納めることで苦しんでいるのをよそに、長崎の町民達
だけは、逆に、貿易の利益を分配されて裕福であり、それが
「おくんち」という華やかな祭りを生み出したのである。

それにしても、貿易というのは利益を生むものである。
それをわかっていたので、信長も秀吉もそれを奨励したのであり、
彼らの時代は、堺や博多の商人がフィリピンやタイまで船を出して
交易していたのである。ところが、徳川幕府というのは、それらを
全て禁止してしまった。それが鎖国と言われるものである。

なぜ、そうしたかというと、政権を安定させるために、儒教を取り
入れたからだ。その教えは、親孝行に始まって、「上の者を絶対的に
尊敬しなければならない」という、主従関係を絶対視する考えだった。
徳川政権は、それで諸藩が幕府を絶対視することを期待したのだ。
ところが、その儒教にはもうひとつの性格があった。それは商いを
蔑視するというものだった。金儲けを悪いことだと考えていたのだ。
そのため、江戸時代を通じて、武士はどんどん貧乏になり、逆に
町民はどんどん裕福になった。
だから、長崎貿易の利益を、幕府が吸収してもおかしくなかった
のに、それを全部、長崎町民に配ってしまったのだ。バカである。

江戸幕府というのは、儒教のせいで経済オンチになったが、
田沼2 そんな中、江戸中期に現れたのが、老中になった田沼意次である。
この人だけは、経済の事をわかっていた優れた人物だった。
彼は、幕府の財政を立て直すためには、商業を盛んにすべきだと
唱えたが、「武士が商いをするのは堕落である」と考えていた他の
幕閣によって、賄賂の田沼だと、さんざんにこき下ろされ、結局、
次の老中の松平定信によって罷免されてしまった。その松平の方が
「寛政の改革」とされ、江戸時代の優れた政治改革だと、ぼくらは
中学の教科書で教えられてきたのである。

しかしその後、松平定信がやった政策といえば、倹約を主張し、
貧乏生活を、農民や町民に強いるだけだった。幕末も近づく頃には、
老中の水野忠邦が行った「天保の改革」というのもあるが、これも
人民に倹約を強いるだけのもので、流行っていた歌舞伎もダメ、
派手な着物を着るのもダメなど、全ての民間の文化的なものを禁止
したのだ。要するに、江戸時代の三代改革と言われて、ぼくらが
教科書で学んだものは、全て、町民が裕福になって楽しもうとする
のを、貧乏になる一方の武士が嫉妬して、「倹約しろ、倹約しろ」と
強制していた歴史だったのである。つまり、それをとても良い改革と
して一方的に教えられていたのである。こういうことを、最近の
子供達は教科書で、どういう風に教えられているのだろうか?
(2017年10月)

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