石の2 九州の雄・立花宗茂


立花宗茂1 一般的には名前が知られていないが、それが不思議に思えるほど
凄い武将が戦国時代の九州にいたのを最近、初めて知った。
立花宗茂(たちばな・むねしげ)である。
その活躍ぶりとドラマチックな人生は、NHK大河ドラマの主人公に
しても遜色がない人物である。事実、ネット上では、NHKがいつ彼を
主人公にしたドラマを作るのかという書き込みも多い。

宗茂が生まれたのは、信長が勢いを増していた頃である。
当時、九州は南を島津氏、北を大友氏が支配していた。
その大友氏の家臣に、有名な二人の武将がいた。
高橋紹運(じょううん)と、立花道雪(たちばな・どうせつ)である。
どちらも人物、智略共に優れ、大友氏の本拠は豊後・大分にあったが、
この二人は家老格として、海外貿易の重要な港であった博多を守っていた。
立花同雪は博多市街を一望に見渡せる、立花山(367m)の上に
砦を築き、高橋紹運は少し西の内陸の大宰府を囲む四王子山の
中腹に岩屋城という砦を築いて、両者で博多を支配下に置いていた。
同雪は紹運より10歳年上だが、無二の親友であった。そして、
高橋紹運の長男として生まれたのが、宗茂である。しかし、男子に
恵まれなかった同雪が紹運に頭を下げて、宗茂を婿にくれと頼む。
「出来のいい息子だから」と紹運は渋ったが、熱心さに折れて結局
養子に出し、立花宗茂となった。

しかしその頃、主家の大友氏は島津氏に攻められて窮地にあった。
なにしろ主君の大友宗麟に人望がなかった。女狂いで家臣の妻を
立花2 奪ったり、キリシタン大名だったので、敵地に攻め入る時に、兵隊に
「サンタマリア」と叫ばせて神社仏閣を破壊したりしたので、縁戚の豪族
ですら「やってられん」と離反する者が相次いだのである。
しかし、紹運と同雪の二人だけは、主家を裏切ることがなかった。
そして、いよいよ大友氏が島津氏から呑み込まれようとした時、
大友宗麟は秀吉に頭を下げて援助を求めて、その配下に下ったのである。
自動的に紹運、同雪、宗茂らも秀吉の配下となった。
ただ、秀吉の援軍が来るまで、島津の攻撃に対して持ち堪えねばならならず、
その持久戦の中で、立花同雪は病死し、高橋紹運も2千の将兵で、2万の
島津軍を迎えて岩屋城に立てこもり、島津軍に3千人以上の死者を出した揚句、
玉砕した。下剋上の世であった当時、玉砕というのはよっぽど、主従に信頼関係が
あったということである。この二人の父親を見て育った宗茂は、主従の信頼を
大切に思い、また生涯、道義を大切にした。

岩屋城を落した島津軍は、福岡の東にある宗茂の立花城を囲んだが、
宗茂は巧みな遊撃で島津軍を苦しめ、やがて秀吉の援軍が九州に上陸したのを
知った島津軍が退却を始めると、逆に打って出て、たちまち、幾つかの城を落として
しまうのである。その後も、秀吉の九州征伐で武勲を上げた宗茂は、島津降伏の後、
秀吉から西国一の武将として褒め称えられ、柳川13万石を与えられ、
秀吉の直臣大名となった。時に19歳である。

彼は朝鮮の役でも華々しい活躍をする。
小藩ゆえに戦力は少なかったが、その分、知恵を絞り、少ない戦力で倍以上の敵を
翻弄するという頭脳的な戦さをしている。特に慶長の役では、窮地に陥った加藤清正の
軍に対して、多くの大名が援助を渋る中、彼は少数で奇襲を行い救っている。
それに感激した清正は、彼を「日本一の武将である」と最大限の称賛を送っている。

立花4 秀吉が死んで、関ヶ原の戦いになった時、家康からはこちらにつけと誘いが来たが、
「豊臣に恩顧がある」と断っている。ところが大津城を攻めている時に、関ヶ原では
あっという間に決着がついてしまった。
彼は、西軍の総大将である毛利輝元に「大阪城に籠城すれば勝てる」と進言したが、
実は輝元も内心は家康に通じていた。落胆した宗茂は柳川に帰り、家康軍を迎え撃つ。
しかし、実は徳川軍にあって宗茂を攻撃する役割の、佐賀の鍋島家も、加藤清正も
本意ではない。形ばかりの戦闘を行った後に、彼らから熱心にくどかれて降伏する。
本来なら打ち首になるはずだが、柳川藩没収だけで済み、宗茂は
放免となる。当時としては、珍しい例である。

すぐに熊本藩52万石の大名となっていた加藤清正や、加賀の前田家から
家臣にならないかと要請を受けるが断っている。しょうがないので加藤家では
客分として招待し、宗茂は家臣数十人と共に移り住むが、
居候の身に耐えられず、浪人として京都、江戸へと移住している。
おもしろいのは、その間、貧窮の生活を、臣下が乞食同様の生業を
して生活を支えているのである。それほど臣下に愛され信頼された
主人というのも珍しい。

貧窮していた宗茂を救ったのが、徳川の二代将軍・秀忠である。
家臣の本多正純らから報告を受けた彼は、宗茂に五千石を与え、
御側衆として迎える。要するに、昔話などをし助言を与える名誉職
立花3 である。かつては家康に敵対した身でありながら、彼の力量と道義を
認めていた家康も、もはや豊臣への義理を果たしたとする宗茂を
許して迎えている。さらに東北・福島の棚倉藩3万石を与えられ藩主
に復帰した宗茂は、大阪の陣においては、秀忠の参謀として働いている。
そして、家康が亡くなり、秀忠の世になると、幕府より旧領で
あった柳川藩10万石の藩主として完全復帰させられている。
宗茂はそれまでの間、同じように浪人していたかつての臣下達を
次々に迎え入れ、また臣下達も喜び勇んで戻ってきたのである。

宗茂は徳川秀忠から、三代・家光の頃まで、仙台の伊達正宗らと共に
昔話を聞かせたりする徳川顧問の地位を占め、76歳まで生きた。
ちなみに、立花宗茂と伊達正宗は同じ年生まれである。
伊達藩は62万石と大藩であり、立花藩は11万石と小藩だったが、
伊達藩では正宗死後、伊達騒動などのお家騒動が相次いだが、
立花藩ではそういうお家騒動は全くなく、明治まで続いた。
仙台との縁も深く、二代目の忠茂に嫁いできたのが、伊達正宗の
孫娘であり、その息子が立花藩の三代目になった。
現在、福岡県柳川市は、風光明美な水郷の町として、観光に訪れる
人が多い。水運巡りの最終地点にある料亭「お花」は、もと立花家の
別荘であり、目の前の池は仙台の松島を模したと言われている。
絶対、大河ドラマの主人公になるべき人物である。
(2009年)

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