石の2 我が家にテレビが来た日


テレビ1 映画「三丁目の夕日」は2005年に封切られ、大ヒットした。
舞台は昭和33年(1958年)、東京タワーが建設中の頃の東京の
下町である。今と比べるとみんな貧しかったが、この国はこれから
どんどん豊かになってゆくぞというような予感があり、誰もがいろんな
希望を描くことのできる、そういう意味では幸せな時代だった。
当時の小学生が、いわゆる団塊の世代に当たり、現在、そろって
老境に入ろうとしているが、とにかく人数が多かった。ぼくはその、
しっぽ辺りになるのだが、当時の中学校は1クラスが50名くらいで、
14クラスまであるのが普通だった。

映画の中では、主人公の家で、テレビを初めて購入する場面が
描かれていて、ご近所さんがみんな集まって来て楽しむのだが、
ほんとに当時はテレビを持っている家はまだ少なくて、ぼくの家にも
テレビが入ったのは小学3年生の頃だったと思う。それまではテレビの
ある近所のおうちに観せてもらいに行くのであるが、遠慮しいしいだった。
しかし当時の日本は経済成長絶好調の時代であり、給料は年々増えており、
今はまだ持っていない家電製品も来年には買えるだろうという夢があった。
そしてその通り、順々に実現していったのである。
だから、この頃を生きた人々は「我が家にテレビがやって来た日
というそれぞれの体験を誰もが持っているのである。

ぼくの場合、母から「今日はテレビがやって来るけんね」と聞かされて、
ワクワクして小学校の授業が終わると、すっ飛んで帰ってきた。すると、
やがて父が電気屋さんと一緒にテレビを運んできた。部屋の隅に設置
したが、テレビの上に置く卓上アンテナの向きが難しそうだった。
テレビ2 父と電気屋が帰るとぼくは一人になった。妹達はまだ帰っておらず、
母は仕事であり、父だって仕事の途中で来たのだった。
ぼくはとりあえず画面に流れている番組を見つめていた。NHKの
歌舞伎中継である。当時はまだ、NHKの他に民放は少なく、しかも
視聴者の少ない夕方の時間は何も放送していない時間もあった。
その時間は多分、NHKの歌舞伎中継しかやってなかったのだろう、
ぼくは何がおもしろいのかもわからないまま、テレビがうちに来たのが
うれしくて、ずーっと画面を眺めつづけていたのを覚えている。

そして当時のテレビ番組で何より一番人気のあったのが、力道山が
活躍するプロレスである。三菱電機提供の「三菱アワー」と言って、
金曜日の午後8時から1時間、ディズニー・ワールドと、プロレスが
隔週で交互に放映されるのである。全く性格の違う番組なのだが、
どちらも子供にはワクワク興奮するものだった。
ディズニー・ワールドは毎回、創始者のウォルト・ディズニーが冒頭で
挨拶をして始まり、ミッキーマウスやグーフィーなどのアニメだったり、
冒険の国では、アメリカ山猫の生態のドキュメントやドラマだったり、
宇宙の国では、人間が宇宙に出ていったらどうなるかのシュミレーションを
アニメでしてくれたり、ある回は、マイアミにあるディズニーランドの紹介を
したり、ほんとにめくるめく夢の世界を見せてくれた。後に、
本当に日本にディズニーランドが出来るなんて思いもしなかった。

そして、当時は国民的人気だったプロレスだが、何がいいかというと、
アメリカから来たプロレスラーを、我が日本の力道山が空手チョップで
テレビ3 次々にやっつけるのである。日本は戦争でアメリカに負けて、1945年
から1952年まで7年間占領されていたのであり、ぼくが生まれた年に
独立したのである。戦争で負けてみて初めてわかったのは、
豊かさの違いである。「欲しがりません勝つまでは」のスローガンで
やってきた貧乏な日本人に比べて、アメリカとはなんと豊かで、
文明の進んだ国なのだろうと多くの日本人があきれてしまった。
多くの人が思ったのは、「こんな国に日本が勝てるわけがなかったのだ」
という思いであり、アメリカに対する劣等感である。
そういう劣等感を払拭するように、力道山はアメリカ人のプロレスラーを
空手チョップで次々に倒しまくるのである。日本人は熱狂した。
だから、当時のプロレスというのは、国民的なスポーツ番組になった。

その中でテレビ中継された試合として、ぼくの記憶に特に強く残って
いる忘れられない試合がある。それは力道山対フレッド・ブラッシーの、
1対1の試合だった。
アメリカ人のプロレスラー、フレッド・ブラッシーは「金髪の悪魔」とか
「噛みつき魔」とか言われていて、元々実力はあるのだが、悪役に
徹していて、自分が不利になると突然、反則技である噛みつきをやるので
ある。もっぱら相手の額に噛みつく。そのために普段から歯を
ヤスリで磨いて尖らせているというから、いわば反則技の確信犯で
あり、悪役レスラーである。その夜はその本領が発揮された。
途中から一方的に不利になったブラッシーがいきなり力道山の額に
噛みついたのだ。力道山はそれを払いのけようとするのだが、ブラッシーが
執拗に噛みついて離さない。すると、力道山の額から幾筋かの血が流れて
くるではないか。もちろん力道山は何度もブラッシーを
跳ね飛ばすのだが、ブラッシーもフラフラしながら執拗に噛みついてくるので
ある。力道山も何か意識が朦朧となってきているようだった。
テレビ4 しまいには、力道山の顔が血だらけになった。当時のテレビ中継は
まだ白黒なので、血の赤ではないのだが、その壮絶さは白黒でも
充分に刺激的だった。

小学生のぼくは、そのあまりの凄まじさに耐えられなくなって、テレビの
スイッチを飛びつくようにして切った。心臓がバクバクしていた。
夜の8時台だったが、どういうわけか、みんな出かけていて、ぼくだけが
部屋に一人でいたのである。当時は真っ暗にしてテレビを観ることが
多かったので、テレビのスイッチを切ると真っ暗になった。数分間、暗闇の
中でじっとしていたが、またスイッチを入れた。その時点では、もう既に、
ブラッシーが反則負けを言い渡されて終わっていた。ただ、この残酷な試合の
あまりの凄まじさに、テレビを観ていた老人が日本中で何人か、ショック死した
と翌日の新聞で知った。

ちなみに、ブラッシー自身は、大変な日本びいきであり、
奥さんも日本人であり、力道山にも友情を感じていて、
力道山が銀座のキャバレーでやくざから刃物で腹を刺されて
死んだ時には、涙を流して悲しんだらしい。
(2009年5月)

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