石の2 剣豪・千葉周作は宮城県出身


千葉1 宮城県出身の有名人として、幕末の江戸になるが
剣豪・千葉周作がいる。
北辰一刀流の開祖として、江戸に道場を構え、
神田・お玉ガ池の道場などは大繁盛した。
坂本龍馬や、山岡鉄舟などもその門下生だった。
何よりの特長は、防具をつけて竹刀で打ち合うことだ。

それまでの剣道場では、硬い木刀を使っていたので、
打ち合うことが出来ず、型ばかりを教えていた。
竹刀と防具を発案したのは、中西忠太という人だが、
合理的精神の持ち主だった周作はすぐにこれを
採用した上に、それまで秘伝とされてきた術を
万人がわかるように、平易に伝達した。
それが革命的だったために、人が押し寄せた。
それが、今の剣道に繋がっている。

周作は、身長がずば抜けて大きく、六尺というから、
180cmくらいで、当時としては大男である。
坂本龍馬もそのくらいだったという。
江戸時代の男性の平均身長は、157cmくらいである。
そして、周作は顔が長く、あごも長かったという。
NHKでテレビドラマになった時、彼を演じたのが、
加藤剛である。大岡越前を長くやっていた人です。
ピッタシだと思う。おちゃめにするなら、阿藤快かな。

千葉2 司馬遼太郎が、千葉周作の小説を書く時に、
題名を「北斗の人」とした。
「北辰一刀流」の北辰は、北極星のことであり、
彼の千葉家が代々祭って、信仰していたのが、
北斗七星を祭る、妙見神社である。

千葉氏は、今の千葉県に構えた豪族であり、
源頼朝が鎌倉幕府を立ち上げる時、
最大の味方の勢力となった功労者である。
ところが、その後、疎まれて北に散った。
だから、東北には千葉姓が多い。
周作は宮城県の山沿いの、花山村の出身である。
栗駒山にドライブに行く途中で、その生家に
寄ってみたことがある。今でも、のどかな農村だ。

その村の庄屋屋敷が、周作の記念館になっていた。
庄屋が彼をみそめて、若い周作に「江戸に出ろ」と、
進めたらしい。「おまえは、きっと何者かになる」と言った。
その場面が、等身大の蝋人形を使って、再現されている。

周作は松戸の道場で修行をした後、独立して、
千葉3 花のお江戸で大成功し、3000人もの弟子を抱え、
明治維新の13年前に、62歳で亡くなった。
お玉ヶ池とは別に、桶町に道場を開いていたのが、
周作の実弟である千葉定吉であり、
坂本龍馬が入門したのは、実はこちらである。
そして、定吉の長男の重太郎と、龍馬が仲が良かった。

この重太郎と、坂本龍馬が、ある日、勝海舟を斬りに行く。
実は、千葉道場というのは、水戸藩と密接だったために、
ガチガチの攘夷論に染まっていたのだ。そのため、
幕府の要人で、開国派の勝海舟は許せんと考えた。
同年齢で若い二人は、意気込んで、海舟に会いに行った。
ところが、海舟の話を聞くうちに、龍馬がすっかり海舟に惚れ込んで
いきなり弟子入りしたため、海舟を斬ることを、重太郎も断念した。

その重太郎の妹が、千葉佐那(さな)である。
坂本龍馬の婚約者となった女性である。
龍馬が千葉道場に入門したのが、19歳。その時、
佐那は17歳であった。
少女のくせに、北辰一刀流の使い手であった。
最初、龍馬は佐那にかなわなかった。
千葉4 しかし、龍馬もどんどん腕をあげてゆき、佐那を越える。
その辺りから、相思相愛になったらしい。
ついに、親であり師である定吉の承認を得て、婚約する。

印として、定吉は龍馬に短刀を送り、坂本家からは、
家紋である桔梗紋の羽織を送ったという。
ただ、結婚は先送りされた。
龍馬が開国派の海舟の弟子になって奔走し始めたからだ。
結婚は、混乱が収拾してからということになった。

ところが、龍馬は、京都や長崎で獅子奮迅の活躍をする中、
京都で、お竜という女性と出会い、西郷隆盛の媒酌によって
勝手に結婚してしまう。鹿児島に日本初の新婚旅行までした上に
あげくは、京都で暗殺されてしまう。

龍馬が帰ってくると思い、9年間待ち続けていた佐那は、
明治になってからも、お竜のことも知らず、
その後、ずっと独身を貫いたという。
龍馬も罪作りな男である。
千葉周作の姪っ子は、龍馬の婚約者のままで終ったのである。




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