石の2 仙台東照宮


東照宮1 東照宮といえば、徳川家康を神として祀った神社である。
家康は死に当たって「遺体は久能山に埋め、一周忌の後に日光山に
堂を建てて勧請(かんじょう)して神として祀るように」と遺言した。
家康は死んだ後も、霊となって日本国の鎮守となろうとしたのである。
そこで息子の二代将軍の秀忠はまず、久能山東照宮(静岡県)を
造営し、翌年、日光(栃木県)に東照宮を新築して、そこに勧請した。
さらに、三代将軍・家光は、日光東照宮を大改築して、絢爛豪華な
装飾を施し、今では多くの観光客が訪れるようになり、今では建造物や
周囲の自然の雰囲気全てを含める形で、世界遺産になっている。

ということで、東照宮といえば、栃木県の日光東照宮が本家であるが、
実は江戸時代初期には、日本全国、あっちこっちに東照宮が建てられ
ている。大小500以上もあったというし、今でも130ヶ所が残っている。
それは徳川幕府が造れと命じたわけではなくて、各藩が競い
合うように、自分の領内に勧請してもらって造営しているのである。

というのもやはり、徳川家に臣従しますという態度を見せるためだっ
たのだろう。なにしろ、二代将軍・秀忠の頃までは、大名の改易、つま
り取り潰しが相次いだのである。代表的な例が、福島正則と加藤清正
東照宮3 である。どちらも豊臣恩顧の武将ながら、関ヶ原では徳川方につき、
活躍したので、その功績により、福島正則は安芸・備後の広島藩・50万
石の大名になり、加藤清正も熊本藩54万石の大名になっていたのである。
それが、家康が亡くなると、どちらも、わけのわからない理由であっさり
取り潰されている。
山形県の庄内地方に観光で行った時のことだが、そこに加藤清正の
墓があるのを知って驚いた。なんで、こんな東北の田舎にあるのか?
実は、清正の死後、三男が熊本54万石を継いだが、すぐに取り潰し
にあって、遥かな東北の庄内藩に、母と共にわずか扶持1万石で、
預けられ、そこで生涯を終えたというのだ。哀れである。

そういうこともあり、江戸初期に、各地に造られた東照宮は徳川家に
対しての恭順を示す目に見える形であった。東北では、仙台東照宮と、
山形の出羽三山神社の東照社、青森の弘前東照宮が有名だが、特に、
弘前(ひろさき)東照宮が設立された逸話がおもしろい。
東北の北部は、戦国期は広く南部氏が支配し、今の岩手県の盛岡城を
中心に勢力を持っていた。が、ある時、その家臣だった津軽氏が、今の
青森を中心とする領地をかすめ取るような形で独立した。南部氏は激怒
して攻撃しようとしたが、津軽氏は巧みに、徳川幕府の閣僚に取り入り、
津軽藩の独立を勝ち取ってしまった。しかも念の入ったことに、すぐに
東照宮4 居城の弘前城の中に、東照宮を造営してしまったのである。その結果、
もし、南部氏が弘前城を攻撃すれば東照宮にまで被害が及びかねず、
そのせいで南部氏は津軽を攻撃できなかったというのである。結果として、
津軽氏は、明治維新まで続く、堂々たる青森の大名となり、しかも、
華族としては、津軽家の方が南部家より格が上になってしまったという。
そのせいで、今でも青森の津軽人と、岩手の盛岡人との仲は悪いという。

そして伊達政宗も、仙台城下に実に立派な東照宮を造営した。
もちろん、徳川幕府には逆らいませんという姿勢を示すためである。
なにしろ、伊達政宗は「遅れてきた覇者」と言われ、もう少し早く生まれ
ていれば、信長、秀吉、家康と対等に戦って、天下を取ったかもしれない
と言われた人物である。そのため、その動きは常に怪しく、何を考えて
いるかわからないと秀吉にも家康にも警戒されていた。

家康が天下を取り、江戸で将軍になった後は、もう、さすがの政宗も
徳川の下に入るしかなかった。青葉城を作っても、天守閣は作らなかった
し、盛大な東照宮を造営し、江戸屋敷にあっては、頻繁に登城して、
二代将軍・秀忠、三代将軍・家光に、昔話をして聞かせる爺の役割に
徹したのである。その結果、、秀忠からも家光からも特別に信頼を得て、
後に仙台藩で伊達騒動と言われる有名なお家騒動が起こった時にも、
改易されずに済んでいる。結果、仙台藩は明治維新まで存続し伯爵家
となっている。

仙台東照宮は市街の北にあるが、その参道は門前町を抱えて、まっすぐ
仙台駅付近まで一直線に伸びていて、本来ならば東北道へも繋がって
ていたはずであり、それほど目立つ位置に造営していたである。
しかしその参道の先は今では、仙台駅と東北本線に遮られて消えている。
今は、その境内の石段脇の桜並木が、すっかり仙台の桜の名所に
なっていて、季節ごとに様々な祭りがあり、多くの人で賑わっている。
野望の人だった政宗も最後はすっかり、徳川家康の息子や孫に、
好々爺として尽くす老人として過ごして亡くなったのかと思うが、実は、
天下への野望をもっていた政宗の、徳川に対する反骨心の残滓(ざんし)
なのかもしれないと思わせる話は、まだある。

東照宮2 まず、伊達家と仙台の総鎮守としての「大崎八幡神社」の建築様式は
秀吉の頃の派手な桃山文化の装飾を採用している。さらに、伊達家の
墓所である瑞鳳殿も華麗な桃山様式であるし、松島の瑞巌寺の欄干の
彫刻も桃山様式であり、秀吉時代の桃山文化の様式美を見ようと思っ
たら、今では、仙台に来るしかないとまで言われている。

さらに言えば、実は、伊達家は真田幸村の子供をかくまっていたのである。
大阪冬の陣では、伊達藩も家老の名将・片倉小十郎を中心に、
よく戦ったのだが、相手の豊臣方にもなかなか、あなどれぬ人物が
いた。それが真田幸村であり、一時は、家康の陣まで一直線に進んで
きて、家康の命すら危ないということになった。もちろん最後には
打ち取られたが、真田家の名声はいやが上にも高まった。実は冬の陣では
伊達藩も真田幸村に痛い目に合わされているが、その戦いぶりに感心
してもいるのだ。その結果、どうなったかというと、真田幸村が戦死した
時に、その次男を密かに片倉小十郎が引き取っていたのである。
家康の生死を脅かすまでに追い込んだ敵の武将の娘である。それを
匿うというのが、どれだけ危険なことかは充分に知っているはずである。
ところが、そういうことをわかっていながら、敵の武将の人間を評価して、
そういうことをやる。それがいかにも、伊達政宗らしい人間性であり、
反骨心だった。

その真田の子孫はどうなったかというと、名前を変えて伊達家の家臣と
して蔵王町で存続していたが、幕末の戊辰戦争の頃に、真田の名前を
復活して名乗り、真田の五文銭を旗印にして、伊達家の侍大将として
戦っている。そして、今、仙台の蔵王町では、真田家が存続していた街
として、仙台真田家の町として、町起こしをしている最中である。
(2012年5月)

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