石の2 筒井康隆ふたたび


筒井康隆ふたたび1 筒井康隆というのは、一度読むとハマってしまって夢中になる。
ぼくは高校生の頃に読みまくって以来のファンである。しかし、ある時、
筒井さんが断筆宣言をしたと聞いた。それ以来、新刊が出なくなったので、
読む機会がなくなり忘れていたが、テレビにはちょくちょく出ているし、
最近また書いているというので、久しぶりに読んでみると、相変わらず
刺激的で、シュールな作品ばかりである。

筒井康隆というのは、ご存じ、日本SF小説界の御三家の一人である。
筆頭は、ショートショートの星新一、優しい感じの語り部である。次に
「日本沈没」などの本格的SF長編小説で有名な小松左京、重厚だった。
そして、この筒井康隆である。よくこれだけ、ハチャメチャで、エログロ
ナンセンスで、奇想豊かな小説を書けるものだと思う。読んでいると、
ニヤニヤしたり、爆笑したり、人間の基本的な、ありとあらゆる欲望を、
これほど全てあからさまにして、それを全て笑いに包んでしまう
小説群を他に知らない。

この前、「今でしょ!」の林修さんが、彼が一番好きな芥川龍之介の
短編小説として「枯野抄」を上げていた。松尾芭蕉が臨終になった席に
弟子達が集まるが、その心の内はそれぞれにまるで違うものだったと
いう心象風景を描いている作品だという。読んだことはないが、その
アイデアを聞いただけでおもしろいと思う。
考えてみれば、芥川の作品というのは、童話やSFに近いものだと思う。
まず、話そのもので読者をおもしろがらせてくれる。その中に、社会を
揶揄する皮肉もあり、人生の多様性を考えさせたりしてくれる。
昭和の小説家に多かったように、自分の自堕落な人生を「私小説」
筒井康隆ふたたび2 として、、延々と描く長編小説とは無縁だった。

名作と言われる、「鼻」「蜘蛛の糸」「杜子春」「芋粥」などは、みな短編
ながら、鋭い印象を残している。そして、ぼくが「枯野抄」の話を聞いて、
芥川龍之介の文学を一番受け継いでいるのは、ひょっとして筒井康隆
ではなかろうかと思ってしまった。もちろん、筒井康隆はSF作家であり、
純文学の作家ではないし、その内容はとにかく、読者をやたらと笑わせ
ることに主眼を置いているので、純文学とは、ほど遠いと思われるが、
小説を純粋な物語だと考えると、これほど似通った作家はいないのでは
ないかとすら思う。芥川龍之介の短編が好きな人は、多分、筒井康隆の
短編小説群を、きっと好きになるはずである。

ただ、筒井の小説は、笑いと皮肉を強烈にするために、表現には遠慮
がない。ところが、その細かいところに差別的用語だと文句を言ってくる
団体がいるのでる。例えば、昔は、「めくら」「つんぼ」「おし」「キチガイ」
などという表現は普通だったが、ある時期から、使うべきではないという
風潮になり、世の中も神経質になった。
多分、これは1988年に、「ちびくろサンボ」という童話が黒人をバカに
していると裁判沙汰にした関西の家族がいて、それを支援するいわゆる
人権団体もいて、そこら辺から始まったのではないかと思う。この家族は
あらゆる差別的用語を使う本や現象を見つけては訴訟を起こす有名人
になってしまった。それが怒涛のようになり、言葉狩りが進んだのである。

筒井康隆ふたたび3 しかし、それでは谷岡ヤスジや赤塚不二夫の漫画もダメだし、古典落語の
かなり多くもダメになってしまうのである。筒井はそこに怒ったらしい。特に、
出版社自体が、そういうアホな風潮に対して自ら自粛してしまったことに
抗議の意味で、断筆宣言をしたのだ。
その後、どうなったかというと、障害者当人の方からは執筆を続けて下さい
というファンレターが届くが、障害者を助ける立場の人々は相変わらず、
筒井康隆許さずという態度なのだという。不思議な親切である。

筒井さんは、そういうモンスターと争うのにバカバカしくなったのか、
出版社が謝ってくると、2年後には執筆を再開した。
なあんだ、そうだったのか。ということで、我々はまた筒井康隆作品を
読めるのである。ぼくは昔の筒井作品の文庫本を幾つも持っているが、
妻から「おもしろい?」と聞かれると、少し躊躇する。なにしろ妻は、
基本的に優しいドラマを好むからだ。例えば、ぼくが大好きな短編の
ひとつである「薬菜飯店」などを読ませてしまうと、気分が悪くなって
寝込みやしないだろうかと不安になるのである。

(2015年11月)

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