石の2 ナガサキ・消えた原爆ドームという話


浦上1 原爆ドームといえば、広島が有名だが、同じ被曝都市の長崎では、
平和祈念像が有名である。と、なんとなく、ぼくは考えていた。
しかし祈念像はあくまで戦後の記念碑であって、被曝遺構ではない。
では、長崎に被曝遺構はなかったのかといえば、実はヒロシマの
原爆ドームより、欧米人にとっては、もっとインパクトの強いものが
あるはずだった。それが浦上天主堂キリスト教会である。

1945年8月9日、広島に続いての2発目の原爆は北九州・小倉に
落とされる予定だったが、小倉上空の雲が濃く、投下目標を視認
できないため、B29は第二目標の長崎に向かった。
長崎には三菱の造船所と兵器工場があったからだ。ただ、長崎は
もうひとつ、日本で最も多くのキリスト教信者がいる街でもあった。
長崎での投下目標は、市内中心部の中央橋の予定だったが、
実際は、4Km北にずれ、よりによって、長崎でもキリスト教信者が
もっとも多く住んでいた浦上地区の上空、しかも日本のキリスト教の
歴史上、最も重要な建築物である浦上天主堂カソリック教会のほぼ
真上で爆発したのである。

皮肉なのは、浦上のキリスト教信者ほど、キリシタンへの弾圧と迫害
に耐え抜いてきた人々はいないということだ。キリスト教が禁令となっ
たのは江戸時代の初期だが、それから260年間を、隠れキリシタンと
して、代々密かに信仰を伝え続けたのだ。幕末に日本が開国して、
長崎の外国人居住区に「大浦天主堂」が建てられると、長崎の町人
は珍しそうに眺めていたが、浦上の住民は密かにやってきて、神父に
「実は私達は…」と訴え出たのである。これがローマ法王に報告されると、
「東洋の奇跡」と言われ、欧米を感動させた「信徒発見」である。

ところが、それでも、明治政府のキリシタン弾圧は止まず、その時に
判明した浦上のキリスト信者3400人は、日本中のあちこちの藩に
配流され、拷問や病死で600人が死んでしまう。ただ、それらが欧米
各国に知られると、たちまち糾弾されることになった。折しも、明治政
府は欧米と不平等条約を改定してもらうための交渉を必死にやって
いたが、国内でのキリスト教弾圧が、その障害になっていることが
浦上2 わかると、やっと、明治6年になって、キリスト教禁令を撤廃するので
ある。

牢から出されて故郷の浦上に帰った信者達は、いちから生活を立て
直さなければならなかったが、その彼らがともかく信仰のために最初
に考えたのは、自分達のための教会を建てようということだった。
彼らは貧困の中で、煉瓦を一個ずつ買い求め、積み上げ建築し、
明治28年から大正14年まで30年かかって、ついに完成させたのが
浦上天主堂だったのである。
しかも、それが建築された土地は、江戸時代を通じて「踏み絵」を
強制されてきた庄屋屋敷の跡だったという。キリスト者にはそういう
執念があるらしく、長崎県内の多くのキリスト教会のほとんどが、
昔、踏み絵をやらされた地主の屋敷跡に建てられているという。

とにかく、そうやって30年をかけて、やっと完成した浦上天主堂の
真上に20年後、原爆が落とされたのである。
実は、その教会の廃墟は、被曝から13年後の、ぼくが小学校1年生
の頃までは、そのままの姿で残っており、教会の庭には聖像の首が
ゴロンゴロンと転がっていたのである。そして、その頃には、長崎を
観光で訪れる人々のための市内観光バスツアーというのが既にあり、
その目玉が浦上天主堂の廃墟であり、廃墟から掘り出された鐘楼の
鐘を鉄塔に吊り下げた「アンジェラスの鐘」だった。

その背景には、被爆者であり、キリスト教徒である長崎大学医学部の
永井隆教授が書いた「長崎の鐘」という著作が大ヒットしたことがある。
それは原爆の悲惨さを描いたものであり、最初、アメリカ側はその
出版を許さなかったが、永井博士がキリスト教者として、被曝を神の
摂理として肯定的に捉え、平和を祈りながら死んだことを知ると、
軟化した。1952年に日本が独立した後、出版され、映画化されると、
全国的に感動を呼び起こし、藤山一郎の歌も大ヒットして、日本中で
誰もが知るようになった。当然ながら、市議会も市長も、その廃墟を
「被曝の歴史」として保存しようと考えていた。

一方のアメリカでは、原爆の威力と被害が次第に明らかになると、
良心的な知識人やマスコミの間で、それを投下したことに対する、
地味だが、批判的な意見が出るようになっていた。さすがに心が
痛んでいたのである。そこでアメリカ政府は、軍部の見解として、もし
原爆を使わず、日本上陸作戦を行っていたら、双方に50万人以上の
戦死者が出たと予想され、原爆はそれを阻止するための手段だった
のだと説明し、多くのアメリカ人は「なるほど!」と納得して現在に至っ
ている。

しかし、長崎の原爆遺構として、キリスト教会の廃墟が永遠に残され
るというのは、アメリカ側としては、どうにもバツの悪いものであった。
ただでさえ、「長崎の鐘」の永井博士は、ヘレン・ケラーから見舞いを
受け、当時のローマ教皇ピオ12世からも特使を派遣されて讃えられ、
長崎の名誉市民にもなっており、被爆地の聖人視されていたので、
教会の廃墟が残る限り、ナガサキは日本人の悲劇というに留まらず、
キリスト教信者をも含む、全人類を代表しての原爆に対しての、
悲劇の聖地という役割になってしまうのである。

そこで、アメリカ側は、長崎市議会の「浦上天主堂の廃墟を保存する」
という決定をくつがえすために、動き始めるのである。
浦上4 まず最初、アメリカのセントポール市というのが、長崎市に対して
突然、姉妹都市提携をしようと提案してきたのである。姉妹都市と
いうのは、今ではよくある話だが、当時は日本初の話であった。
とにかく、仲良くしようという話なので、長崎の田川市長としては断る
理由がない。受け入れると、すかさず、提携式典に市長を招待したい
と言ってきた。ただ、当時の大学初任給が1万円の頃に、アメリカに
旅客機で行くだけで片道30万円かかる。日本はまだ復興の途上に
あったので、日本国が役人の出費にも厳しく、許可を出さなかった。
今と違って役人は真面目だったので、田川市長は行かなかった。

ところが、アメリカは翌年になって、国務省から駐日米大使を通じて、
さらに招待し、今度はアメリカ側が費用を出すということになった。
それならということで、田川市長は応じて、アメリカに渡ったのである
が、それは、一泊二日どころではなく、一カ月間に渡って、アメリカを
東から西まで縦断して視察してもらい、アメリカの文化を見てもらいた
いというものであった。あちこちで歓待の嵐に合い、それはまるで
竜宮城のような接待だったという。そして、帰ってくると、彼は突然、
浦上天主堂の廃墟は、撤去すると言い出したのである。

実は田川市長が渡米する前に、山口・長崎大司教が渡米している。
実質上の浦上天主堂の主権者である。彼はあちらでキリスト教会の
祭司達と合い、浦上天主堂の再建費用の寄付を募って回った。
すると、あちらの有力者から再建費用は喜んで出すが、それについて
の条件が、浦上天主堂の廃墟を撤去することだったという。山口は、
喜んでそれを呑んだという。彼も、原爆投下は神の摂理であり、平和
浦上3 のためには仕方がなかったと肯定する人だったのである。
その彼が長崎に帰り、田川市長もアメリカで洗脳されて長崎に帰り、
相談した結果は、当然ながら浦上天主堂の廃墟の撤去だった。

市議会議員の中には、絶対に残すべきだと主張する人も多く、
新しい浦上天主堂は同じ地に建設するにしても、被曝遺構としての
浦上天主堂は今の平和公園の土地に移し替えて保存したらいいじゃ
ないかと申し入れたが、田川市長は、あくまでも教会の廃墟は撤去で
あり、保存しないということにこだわったという。
そして、1958年3月に浦上天主堂の被曝遺構は破壊されたのであ
る。しかも、その2週間後に、市役所が火事になり、被曝遺構としての
浦上天主堂の写真をたくさん取り貯めていたことで有名だった池松さ
んという市職員のフィルムも全て焼けてしまった。それをミステリアス
と言う人もいるが、ま、偶然なのだろう。

広島ドームは現在、世界遺産であるが、もし浦上天主堂の廃墟が
そのまま残されていたら、それ以上の世界遺産だったに違いない。
だから、長崎市民の中でも、当時の事を知る年代の人々にとっては、
「田川市長の心変わり」というのは、時々、酒の話題になることがある。
とにかく、今では原爆に対する姿勢が「怒りの広島、祈りの長崎」と
言われるようになってしまった。(2013年8月)
参考資料…「ナガサキ・消えたもう一つの原爆ドーム」
        高瀬毅・文春文庫

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