石の2 江戸時代の和船の不思議


和船1 吉村昭さんの歴史小説を読んでいると、江戸時代の
和船が難破して漂流する悲惨な話が多い。その中で、
和船の構造は嵐に会うと実に弱かったと書いている。
へえそうなのかと思っていた折、東京の墨田区にある
「江戸東京博物館」に行って、たまたま、その頃の
和船の模型を眺める機会があった。すると、船尾の
部分が妙にポッカリと開いている。なるほど、
これじゃ嵐に会ったら、水がどんどん入ってくるんじゃ
ないの?と思う。沈没するよな…と。そこで、検索で
調べてみると、実際、そうなのだ。和船というのは西洋の
帆船と比べると、実に情けない構造なのである。

まず竜骨がない。つまり船底に背骨にあたるものがなく、
基本的に平船で、底板を張り合わせて、横に梁を通してあるだけ。
構造が弱い上に喫水が浅く、そこに帆柱を立てるものだから、
非常に不安定なのだ。しかも、甲板がない。いったん嵐に会うと、
荷物はびしょ濡れになるし、水はジャブジャブ入る。乗組員は
その溜まった水を桶で外に掻き出す作業に追われたという。

和船2 しかも、太い梶は、固定式ではなくて引き揚げ式だったので、
嵐に会うと、バタバタ揺れて、それが船体を傷めたり、ちぎれた
りすることもあったという。そのあげく、沈没したり、沈没を
逃れるために帆柱を切り倒して、漂流したりした。
日本人は、信長の戦国時代から、大洋を渡ってきた西洋帆船を
見ていただろうに、何故こういうことになったのか?
鉄砲が伝来してから十数年で世界一の鉄砲保有国になった
くらいに、技術の取り入れと発展の早い日本が、どうして
そういう技術を取り入れなかったのだろうか?

それは、徳川幕府が決めた「海外渡航禁止令」のせいだった。
それまでは九州から、中国やフィリピンまでも、海外貿易を
する長崎や福岡の商人がいて活躍していたのだが、いきなり
海を渡ることが禁止されたのである。そのために、船を造る
場合にも、海外に渡航出来るような構造の船は禁止になった。
西洋船のような複数マストと複数の帆は禁止され、甲板も
禁止された。そうなると、単純な平船で日本近海をウロウロ
するしかないのである。嵐がくればひとたまりもなく、
沈没するか、マストを失って漂流するしかなかった。

徳川時代というのは、海外との接触を拒み、鎖国政策を取ったが、
それは国内平和の確立のためだった。戦国時代には鉄砲の数が
世界一だったにもかかわらず、それ以後300年もの間、
その技術の開発を禁じたし、造船や操船法の技術の進歩
までも禁じたのである。文明を進歩させるばかりが良い
とは限らないぞ、というひどく進んだ思想だったといえる
かもしれない。

とにかく、徳川時代の和船では、追い風に乗るしかなく、
向かい風の場合は港で風待ちをするしかなかった。
と思いきや、日本人がそういうことであきらめるはずがない。
日本の船乗り達も次第に、一枚帆でも巧みに動かせば、
向かい風に対して前に進むことが出来るということが
わかってきたのである。
和船3 いわゆる「風切り」という操船術である。そして、江戸後期に
なると、多くの船乗り達の間で、どんどん習熟されていく。
そして、江戸初期には一か月もかかっていた、関西から江戸
への船便が、江戸後期には、半月くらいにまで短縮されたという。
さらに、その頃になると、商船の間で荷物を積んだままで
関西から江戸へのレースまでが行われたという。
その最短記録は三日だった。

紀州のミカンを江戸に運んで大儲けをした紀伊国屋文左衛門
の話もこの頃である。商都・大阪から、単身派遣者だらけの
武士の都・江戸に運ばれる物は「下るもの」と呼ばれ、大いに
売れた。逆に、江戸で作られたものは「くだらないもの」と言わ
れるようになった。灘の酒がうまいと珍重され始めたのも
この頃からである。沈没しやすい構造だった和船であるが、
明治期になって、蒸気動力と、スクリューを西洋から教え
られるまで、このたよりない和船を工夫して操船し、
国内海運をそれなりに盛り上げたのが我が国の船乗り達の
意地であり工夫であった。見上げたものである。


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