石の2 邪馬台国は九州にあった


やまたい1 卑弥呼の邪馬台国は、九州説と近畿説に別れているが、ぼくは
圧倒的に九州説支持である。それはおまえが九州人だからだろうと
言われるかもしれないが、「それは当たり前じゃ。文句あるか」と、
焼酎の瓶をドンと前に置いて居直りたい。ただ、どう考えても、その方が
自然なのである。というか素直に考えれば、そうなってしまうのである。

まず、天皇家の先祖がアマテラスという女王であり、卑弥呼も神話時代
の女王であり合致する。そして、その後に神武天皇が、九州から東遷
して東に行き、近畿において、大和王朝の初代天皇となるのである。
とても話がすっきりしているではないか。
だいたい当時は、鉄製の武器や、文字や仏教などの高度な文明は、
全て中国大陸からもたらされているのだから、その輸入経路として一番
近いのは、九州であり、まずそこに日本の有力国家が成立するのは
当然である。邪馬台国がいきなり近畿というのは逆に不自然である。

さらに、古代日本の考古学的遺物として、銅剣と銅鐸が出土するが、
銅剣は主に九州に、銅鐸は主に近畿である。ところが、大和王朝の
書物には銅鐸に関する記述が全くない。実際、未だにこれが何に
使われていたのかすら全くわからない。これは、近畿の銅鐸を使って
いた国が、他所から来た大和王朝に滅ぼされたということを示している。
この三つの理由だけで、九州の邪馬台国が近畿に東遷してきて、大和
王朝を建てたとするに充分である。ついでに言えば、邪馬台国を読み直
せば、すんなりと「ヤマト国」と読める。この4つで決まりである。普通に、
素直に考えればいいのである。

「魏志倭人伝」での方向やら距離やらが矛盾しているという人がいるが、
あんなのは、朝鮮半島を伝って博多に来るまでが実写記録であり、
その後はみんな聞き書きなのだから、嘘っぱちであり、無視すればいい。
では、実際に邪馬台国は九州のどこにあったかであるが、当然ながら、
中国や朝鮮経由で新しい技術を持った人々がやってくる以上、博多や
松浦半島の海岸から遠くはないだろう。せいぜい大宰府、あるいは次の
佐賀の吉野ヶ里遺跡辺りというのが考えられる。そこら辺でいい。

しかし、記紀の神話で不思議なのは、先祖の神が降りた高千穂というのが
今の宮崎県だということだ。実際、宮崎県には古代の遺跡が多く、しかも
神武天皇はそこから東遷に出発しているというのである。何で、あんな
辺鄙な土地に、神話の神様が降りたの?と不思議に思うのである。
これは日本人のルーツに関係があると思われる。日本人の最大のルーツは、
インドネシア、ポリネシア、広南だと思われる。南洋から島伝いにやってきた
縄文人なのだ。目が丸く、彫りが深く、毛深い。それが北海道まで行き渡って
縄文文化をこしらえた。だからアイヌは沖縄人とよく似ているし、青森県人の
言葉のアクセントは沖縄ととても良く似ている。そこに割って入ったのが中国
大陸から渡来した弥生人だった。顔が長く、目が細く、唇も薄い。彼らが
鉄器文明をもっていたために支配階級になる。そのDNAの最も濃いのが
九州北部である。邪馬台国はそこに出来たのであり、弥生人の国である。

やまたい2 しかし、現住民の縄文人も負けてはいなかった。日向の国・宮崎から熊本に
入り一大勢力を築いて、邪馬台国とやり合った。それが熊襲(クマソ)である。
勝ったり負けたりしながら、卑弥呼の次代の女王・壱与の後に、その中間で
ある、福岡県飯塚市の「大分八幡宮」で、やっと和解する形になったのでは
ないかと思われる。なぜかというと、日本全国にある八幡宮の起源がここで
あり、大分の宇佐八幡宮、京都の石清水八幡宮、福岡の箱崎宮も全てここ
からの分霊なのである。特に、宇佐社は「宇佐神宮」として別格とされ、現在
では全国の八幡宮の総社とされている。なぜならば、神武天皇はここで両軍を
整えて、東遷に出発したからである。

そして、奈良時代になって起きた事件として、時の称徳女帝に取り入って
自ら天皇になろうとした僧・道鏡の話が有名である。道鏡を天皇にしていい
ものかと皇族が和気清麻呂を派遣させて神託をうかがわせたのが、宇佐神宮
である。天皇家の人事を決めるのに、祖霊に聞くというために行った先が、
宇佐神宮だったというのは、そこが天皇の祖先の土地だったからである。
つまり、邪馬台国は九州にあったのである。はい、これで決まりである。
後は、この先、近畿説の学者が裸足で逃げ出すような、考古学的発掘が
じゃんじゃん見つかるのを待つだけである。
(2015年6月)

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