石の2 引揚者・幸運だった母の場合


引き揚げ1 先日、NHKスペシャルのドキュメンタリー番組で、「引揚者の悲劇」
という話をやっていた。
戦前に日本の植民地であった満州や朝鮮半島に、国内から渡った
人々は、終戦と共に一挙に財産を失って帰国することになるのだが、
財産どころか、侵入してきたソビエト軍によって、暴行、略奪、強姦され
た挙句、男達はシベリアの収容所に送られて過酷な労働を強いられ、
女子供は、惨殺されることが多かったのである。特に、内陸に居住した
日本人がそういう運命に合うことが多かった。

しかし、母の場合は、大きな港町だったので、大変幸運な例だった。
母は昭和2年生まれで、和子と言うが(この年の生まれには、昭和
にちなんで、和子や和男がとても多い)、北朝鮮の元山(げんざん)
で生まれた。母の両親はもともとは、佐賀の人であるが、戦前は
家財は全て長男が受け継ぐ制度だったので、次男だった母の父は、
植民地で一旗揚げようと朝鮮に渡ったのである。
母はそこで生まれて、女学校を卒業して銀行に勤めた。

銀行員の中には、男性の朝鮮人が一人いたそうで、優秀な人物な
らば、朝鮮人でも採用したのである。ちなみに、鹿児島の知覧から
特攻出撃した飛行兵の中にも朝鮮人はいたし、日本軍人として少将
にまでなった朝鮮人もいたのである。それはともかく、ある日、母は
同僚の女性と二人で、その男性の家に遊びに行ったことがあるという。
おちゃめだったのである。すると、その朝鮮の部落では「日本人が
遊びに来た!」と珍しがって、大勢が覗きに来たそうである。

そして、すぐに終戦になる。元山にもロシア兵が乗り込んで来る。
満州や北朝鮮でのロシア兵の暴行、略奪、強姦はすごかったわけだが、
それは場所によって多少の違いがあったようで、母によると、元山
というのは、海に面した大きな都市だったので、日本人会の結束が
ものすごく強かったそうである。もちろん、元山でもやはり、ロシア
兵は酔っ払うと女性を強姦しようと徘徊したそうで、ある夜、母の家
にも朝鮮人が手引きして、ロシア兵が近くまでやってきたそうだが、
その朝鮮人が、母の父が校長をしていた学校の教え子だったので、
すぐに「あ、ここはまずい!」とよそに行ってしまったという。
NHKスペシャルでもやっていたが、親しくなった朝鮮人から助け
られたという話は、意外と多い。

そのうち、元山の日本人会のリーダーは、チンピラのロシア兵を
相手にしてもしょうがないが、エラいヤツに言えば、それなりに
ちゃんと対応してくれることに気付いて、交渉の術を見つけたそうで
ある。そのために、元山の日本人達はほとんどが、避難する日が来る
まで自宅に住めたという。北朝鮮でひどい目にあった人は多くが、
すぐに自宅を捨ててバラバラに逃げた人だという。
もちろん、それは元山の幸運だったというべきで、元山ではやがて、
日本人会が38度線まで行く貨物列車を年が明けてから手配すること
ができたのである。驚いたのは、母の話では、その日までむしろ、
朝鮮人がいろんな食べ物を持ってやってきたという話である。
なにしろ、日本人が帰国すると、その家を朝鮮人の誰かがもらうこと
になるわけで、それを競ったというのである。

そして、1946年6月になって、南へ行く貨車に乗ることが
出来た。無蓋貨車で窮屈であり、長い時間かかったそうだが、
貨車は38度線のすぐ手前の駅で止まった。そこから、みんなで
歩いて幾つかの丘を登り降りし、38度線を越えると、すぐに
大きなアメリカ軍のキャンプがあったという。そこには一泊した
だけで、すぐにアメリカ軍の上陸用舟艇に乗せられて、翌日には
福岡の港に着いたという。それから母の一家は、佐賀の唐津の親戚宅
まで汽車で行き、無事生還を喜び合った。

ただ、母の兄は、理工系の大学生だったが、昭和20年に軍に取られ、
陸軍少尉として機関銃隊に配属となり、前線に出た途端にすぐに
撃たれて戦死した。それが1945年8月14日、終戦前日のこと
なので、親戚では、「それが悔しい」とよく話題になる。

母の話に戻ると、元山の日本人会の結束は今も続いていて、隣の家に
住んでいた娘さんとは今でも親しくしているし、祖母の10回忌の時
には、元山でいつも馬に乗って見周りをしていて親しかった将校さんが
大分から長崎まで線香をあげに、やってきてくれた。この人の娘さんが
結婚した相手が、「22才の別れ」の作曲で有名な伊勢昭三だった。

母によると、元山というのは、北朝鮮でも格別の、ものすごく景色の良い
港湾都市であり、広い砂浜の広がる、昔は西洋人の別荘が林間にたくさん
立ち並んでいる土地だったそうで、緯度的には日本の東北と同じであり、
冬には河が凍り、リンゴ園がたくさんあったそうである。今では金正日の
別荘もその高台にあり、その息子であり、現在の権力者である金正恩も実は、
元山の生まれだという。長崎の母に電話で「北朝鮮の金恩日とお母さんは
同郷だよ」と言うと大笑いしていた。

母は佐賀に帰ったすぐに、親しい人に「引揚者だということは、言わん
ほうがいいよ」と忠告を受けたそうだ。それは「引揚者の若い娘はみんな
露助に強姦されている」と思われていたからだそうである。
でも、母の場合は元山にいたおかげで、ほんとうに珍しく幸運な例だった。
なにしろ引き揚げの前日に、みんなで「想い出にもう一回だけ朝鮮ソバを
食べに行こう」と、今の東北で有名な冷麺を食べに行った余裕があった。

そして、母の何よりの幸運は、38度線を越えたのが、
1946年の6月だったことだという。
北にいた日本人は共産ソビエト軍のあまりの残虐非道ぶりに恐怖を感じて、
続々と南を目指したが、38度線以南を占領していたアメリカ軍は、その
あまりの数に驚き、ソビエトに対して
「そっちはそっちで責任をもって日本国民を独自に帰国させて欲しい」と
申し入れたという。ところが、ソビエトは「わかった」と言うなり、
38度線を閉じて6月以降は、38度線に南下してくる日本人をことごとく
殺戮するようになったというのである。母達はギリギリで逃げられたのだった。

追記:ちなみに、日本に帰国してみて、若い母が、一番驚いた風景は、
    道路工事などの肉体労働を日本人がやっているということだったという。
(2013年9月6日)

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