武士と馬の時代考証
仙台の桜が終わる頃、県北の涌谷(わくや)町の、桜祭りに
行ってきた。こちらはまだ満開だった。ここには、伊達氏の支城
である涌谷城があり、石垣の下に桜並木が続き、名所になっている。
その河川敷で、「ばんば競技大会」というのが行われていた。
馬が重い荷物を引いて、コースに設けられた小山を乗り越えて
速度の順位を競うというレースである。主に、岩手県から馬主が
専用車で馬を運んできていて、これほどたくさんの馬をいっぺんに
眺めるのは、めったにない機会であり、興奮した。ただ、そこに
集まっていたのは、サラブレッドではなく、日本の古来馬である。
つまり、日本の武士が実際に乗っていた馬である。
黒沢明監督作品をはじめ、日本の映画やテレビの時代劇では、
ほとんど、背が高くすらったとして格好の良いサラブレッド種の馬が
使われているが、あれは時代考証的にはウソである。
アラブ系のサラブレッド種は明治時代になって初めて輸入されたもの
であり、江戸時代以前の日本には、それよりも尻も胴も頭も足も太く、
ずんぐりしていて、背も低い馬しかいなかったのだ。
走らせても速度は遅く、しかも長い距離を走れなかった。
江戸時代に、家康が家臣の内藤守に褒美を与える際に、馬を
駆けさせて走った分だけの土地を与えると言い、馬が疲れて死ん
だ分の土地をもらったのが、今の新宿御苑であるという話があるが、
走るのが苦手だった日本馬としては、もうそれだけで息絶え絶え
だったろうと思われる。
日本馬は走るよりは、むしろ、坂道を登り降りするのが得意だった。
源平合戦の一の谷の戦いでは、義経は少ない騎馬隊で、
山を越えて平家の陣の背後に回り込み、まさかの急坂から
突如、下り降りて平家を襲い、敗戦に追い込んでいる。
あれがサラブレッドならば、ほとんど足の骨を折ってしまう
程の崖なのである。日本馬だからこそ出来た技だったのだ。
また、日本馬は、制御しやすいサラブレッドと違って、気性が荒く
オスとオスを隣同志に並べると興奮して、すぐに喧嘩を始めるので、
どうしようもなかったという。だから、アメリカの西部劇のように、
馬を並べて一斉に走り出すというのは難しかったようだ。
世に武田騎馬軍団といって、映画では馬を並べて突進する映像が
多いが、最近の研究ではあれは疑わしいらしい。
信州は山が多く、武田軍は山を越えて馬を大量に移動させることに
長けていたので、それが騎馬軍団と言われるようになっただけの話
らしい。だいたい、日本の平野はほとんどが田んぼになっており、
馬を並べて走らせるような荒野はほとんどない。
日本馬の気の荒さについては、明治16年に東北を旅行した
英国人女性のイザベラ・バードも閉口している。西洋人は、馬の
オスを去勢することによって、性格を大人しくするという技術を
知っていたが、その技術が日本に輸入されたのは、明治以後で
ある。
馬の脚に蹄鉄という鉄の輪っかをつける技術も明治以後である。
馬に人が乗ったり、重い荷物を運ばせるので馬の足の蹄が痛む。
それを補強するためである。日本馬はサラブレッドよりはすっと、
ひづめが強かったので、そういう発想が浮かばなかったが、
サラブレッドの輸入と共に、そういう技術も輸入されたのである。
馬がパカッパカッと走るのは、それ以後のことである。
さらに、映画やテレビの時代劇では、サムライが馬に乗って刀を
振りまわして相手を倒しているが、あれも虚構らしい。
確かに、平安時代に、武士は馬に乗って駆けているが、あれは
矢を射るためである。流鏑馬(やぶさめ)というのは、その技術である。
そもそも、鎧を着込んだ武士を刀で殺すというのは無理なことで、
たいていは馬から落ちて後に、くんずほぐれつで、最終的にとどめ
を刺すのが刀の役割だった。
刀の斬り合いが凄みを帯びてくるのは、むしろ幕末であり、
しかも戦場ではなく、市中での暗殺や襲撃である。
だいたい、戦国時代に中心となった武器は弓矢と槍である。
平安時代は武士と武士が名乗り合って弓矢で戦えばよかったが、
信長以降には、足軽なども加わった集団戦闘になる。槍ならば、
何の技術も要らないのである。さらに、後にはそれが鉄砲になった。
数さえ揃えれば、技術も勇気も関係なく、相手を倒す事が出来る。
その時に、馬はどういう価値があるだろうか?
馬に乗った武士というのは、鉄砲の格好の餌食であるはずだ。
要するに、馬の必要は、戦場に早く駆けつけるか、負けた場合に
戦場から早く逃げる場合に活躍したと思われるのだ。
それに、気難しい日本種の馬を扱うには、馬子と言われる人間が
必要だった。その馬の性格を知って、たづなを引いてゆく職種だ。
江戸時代を通して、街道の往来においても、馬というのは馬子に
引かれて、旅人をのせて、のんびりと歩いてゆく移動手段なのである。
だから、ドラマのように、武士が街道を馬に乗って駆けてゆくという
ことはなかった。実際、赤穂藩の殿様が吉良殿殺傷の事件を
起こした時も、その緊急の報告を赤穂に伝えるのに、江戸から
姫路まで、馬を使ってはおらず、早篭を使っているのである。
つまり、馬というのは当時においては早い乗り物ではなかったのだ。
馬といえば、サラブレッドの競馬馬しか知らない現代人には
なかなかわからない真実である。
(2010年)
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